昭和54年01月23日 朝の御理解
御神訓 一つ、「今より何事にも方位は忌まず、わが教えの昔に帰れよ。」
この御神訓を頂いて、金光教の信心が宗教以前の宗教だと、私は申し、ま、言い出したわけです。教えの昔に帰れ。沢山な宗教があるけれども、そういう宗教以前の宗教だというふうに。確かにそうだと思います。けれどもそれを頂く者がやはり、方位は忌ず我教の昔に、私共自身が帰らなければ、そういう宗教以前の宗教だと言われる、尊い信心を頂いておっても、それが一般に伝わっていかない。ね。
教団人全体が、そこんところを信じ分って、そして伝えていく。でなければいけない。例えば、言いながら自分は、日柄を言うたり方位を言うたり。と言う様なことで伝わっていくはずはありません。私は昨日から、ま、いろいろ思わしてもらうんですけども、本当の事から真実なことへと。本当というのは、信心のない人達が言う本当。信心で言う本当というのは真実なんだ。ね。
いうならばその真実をいよいよ求め、又は極めていく。というのが本当から真実へ。とこういうのである。ですからどんなに合楽理念が本当だ。完璧だ。絶対の道だ。と例えば言うてもです、それを伝えるものが結局、本当なものにならなければ伝わらない。という事を昨日からしきりに感じるのです。いうならここで私が合楽理念をどんなに素晴らしいと言うてもです、私自身が本当なものにならなければだめだ。とね。
昨日午後、丁度研修の終わったところへ、むつやの信司郎さんが昨日はあちらの共励会ですから、そのお届けに出て参りました。それで、昨日の朝の御理解の中にも、あそこの事が取り上げてございましたから、あのう「信司郎さん、どんなに考えてもあなたの所に今おこっておる事は、これは金光教。私、他の宗教は知らんけれども、金光教が始まっていわば百年、その百年の間にです、例えば一商社というでしょうかね。
一商店から、毎年毎年修行生が出る。と言った様な事は、これはもう前代未聞の事だよ。」と言うて話した事でした。ね。教会ででも、修行生が育たん教会が沢山あるのにですよ。「あんた方は、毎年毎年、しかも、その毎年、その合楽に修行に出すたんべんに、家が一軒ずつ増えていきよると言うんじゃから。これはも、本当に私は前代未聞の事だと思う。」と。
やっぱり、先代の信心の徳というものがね、ああいう若死をされて、どうした事じゃろうかと一般では言うとったけれども、やはり先代の徳と言わなしかたがないばい。やっぱり先代の徳ばい。と言うて話した事でした。そこでです。んなら信司郎さん、この前代未聞といような事がね。いよいよ、むつやのお店の上に現れるようになったら、これは素晴らしいこと。こげん楽しい事はなかね。と言うて話しましたね。
自分のお店から毎年、その修行生が今年でもう四人出てるんですねえ。出るたんびんに、またお店の方では家が一軒支店が出来る。住宅が出来る。店が立派に新築出来る。と言った様なおかげを頂いてるわけなんです。ね。それもばってん、そんくれなこっちゃないって。これはもう前代未聞のこと。とこういう事は、ま合楽にはそういう前代未聞と言う様な事がいくらでもありますよ。その中の一つだな。と私は思うですね。
一御信者のいうならばその、が自分の息子達を皆先生になした。と言った様なところはあるかも知れませんね。熱心な。例えば、親の信心が子供達を全部お道の教師にした。というのはありましょうけれども。お店からね。店員達が、女店員達が次々と、そのお道の教師を志すと言う様な所は、もおそらく金光教が百年、始まってなるけれども、まむつやだけじゃろうねと。してみると、前代未聞のこと。
だからその前代未聞のことが、そういう神様の働きがです、こんだむつやの上に、そういう働きがおこり出したら、大したこっじゃろ。と私はこう申しました。その為には信司郎さん、いよいよあんたが美しうならないかんばい。大きくならないかんばい。私はこの人に言うのはもうこれだけです。いつも。問題がおこったら、あんたが汚かけんばい。美しうなってごらん。問題はその場で解決するよ。というふうにしか言わんのです。ね。あんたが大きくなる以外にはない。
だからいよいよ、ここんところに徹底して、おかげを頂いていかなきゃならんね。と言うて申しましたがね。問題はどんなに素晴らしい、いうなら前代未聞と言われるような金光教の信心を頂いておっても、宗教以前の宗教と言われる程しの宗教に縁があっておってもね、私共が、それを頂く私共がいうならば、本当な真の人をめざさなければ、ね。例えばお店でいうならばね、もう家の社長はね、信心しなさるけんちがう。ちね。よか方にですよ。悪か方じゃなか。
悪か方に違うとがおるですけんね。信心の無かもんでもせんごたるとをして、ああ家の社長が金光様の信心するばってんから、しとる事はどうかという事になるです。ね。だから勿論、信心によって変わっていくということ。やっぱ変わらなだめですよ。私はあのう何ち言うか、日田の平川さんの所の若い奥さんが、井手さんの所へ来てから、そのもう、うちのおじいちゃんが合楽に参るようになって、こげな変わり方をした人は初めて。と言うて、そのおじいちゃんをほめられたと。
だからその前がどの位悪かったか分る訳ですね。例え悪かっていいです。変わりすりゃええやないの。どんな悪人じゃったって善人になりゃええやないの。善人ともつかん。悪人ともつかんごたっとが、一番つまらんです。ね。もう本当にお爺ちゃんがあれだけ変わられた。あぁいう教えをしなさる所の先生の話しなら、私もいっぺん聞いてみたいと言う様になって、お導きを受けてお参りをして来る様になったら、此頃はいうならば、あのう嫁さんだけではない。今度その御主人もお参りするようになった。ね。
子供達もお参りするようになった、変わらにゃいかんでしょうが。これで変わってしもうた。ということじゃない。変わっていく。ということなんだね。変わりばえがない。信心しよっても。これは私始め、なら私が合楽理念がもう最高。助かりの理念。助かりの最高だと。ね。こういう有り難いのを、どうして皆が分らんじゃろうかと。それこそ、神の一言は千両の金にも替えがたい。という程しのいわば、合楽の場合はそれを、私は本当に神の一言だと思うと。これは私の話しじゃない。
それを皆が左右にする。いい加減にする。ということは、どうした事じゃろうかと私が言うたり思ったり、はがいがったりして、いろいろも、どうして分らんの。と言いよったけれども、その言っておるこっち自身が、本当なものじゃないから分らんのだと。ま昨日は聞いて頂いて、これからもう、はがいがるような事は決して言わん。はがいがる事を言うこつは、もう自分でのんぼり向いてツバ吐くごたることじゃと。昨日は私は思わせて頂いて、昨日からはがいい、どうして分らんかという事は思わなくなったね。
昨日ある、ここの書生達のことで気にかかる事があった。大体、いったいあの連中はどげなふうにしとるじゃろうか。と聞いてみたいような思いがしておりましたが、その事をお願いさして頂きよったらね、私の親身が足りんからだ。と神様から頂いたんです。御心眼にね、あれはあのう、鏡獅子なんかというお芝居がありますね。あの手にもった、小さい獅子をもって、こう舞う舞いがありましょ。あれを頂くんですよね。獅子のお知らせは親の情とか親の時に頂くんですね。
それがお前のは、手先だけで親を思うとると。頭(ずう)からんなら、あの修行生人ね、頭(ずう)から自分の本当の子供と思う親身が足りんのだ。と頂いて、言われてみれば成程そうだと。彼達がどうこうじゃない。こっちがまだ親身が足らん。ところがどっこい、その親身になるという事は大変な事なんですよね。言われたけんハイとなれるもんじゃないです。もうこれは頭から入った信心で、自分が改まらないかぎり、そんなに思えるはずないです。ね。
只、口だけで改まった。口だけで、もう私はほんな自分の子のごつ思とる。ち言う事だけなら気安いけれども、本当に自分の、いうならば子と言うか、親身をもって思える思いが足りんからじゃ。と仰るね。問題は私自身がもっともっと改まらなきゃならん。いわゆる、もっともっと本当(真実)な私にならなければならないという事になるのです。ね。信心とは結局もう、ふつうから言うたら本当でしょうけれどね。
信心でいうたら、真実というのは限りがないのです。その限りない真実に挑戦していくというのが信心です。だからちった変わらにゃだめですよ。やっぱ本当なことから真実なことを目指しとるのじゃからね。自分自身が変わってそれを伝える。金光教の信心は素晴らしいといかに言うても、言っておるその人がつまらなかったら、いつまでたっても、も教団全体が真実なものにならなければいけないという感じが致します。
ならここで私が合楽理念をどんなに、皆さんに聞いてもっらたり、説明を致しましてもです、ね。本当に伝わっていくという事。それが広がっていく。為には私がいよいよ本当なものになり、もっともっと広い心にならなければならない。そして信者の一人一人に、いうならば親身のものね。いうなら今日はとにかく金光教の信心が、その前代未聞の宗教であり、宗教以前の宗教であり。
そういう素晴らしい、いうなら釈迦もキリストも説き得なかった程しの内容をもった、御教えであるということをです、私共が知り分ってもですんなら、それだけの教えを身につける事の精進が、本気でなされなければ、そういう素晴らしい宗教でも伝わってはいかないね。あぁ成程この御教この御神訓は素晴らしい、何ごとも方位は忌きず教えの昔にかえらせて、自分自身が頂かずして、なら宗教以前の宗教だといくら言ったところで、それは伝わってはいかない。
いかにこれが本当なことだから。と言っても自分自身が本当な事になる精進をしなかったら、それは伝わってはいかないね。完璧と完全ということは、私共出来るはずはありません。けれども、少しは信心を頂いとるならば、教えを頂いとるならばです、ね。それこそ、平川さんじゃないけれども、いうなら信心のない嫁御が、もう家のおじいちゃんぐらい変わんなさった人はなか。という位な変わり方が、まずは出来ることを、精進しなければならんと思うのです。
どうぞ。